コリヤー兄弟とゴミ屋敷の怪(前編)
全米で最も有名なゴミ屋敷の住人「コリヤー兄弟」について紹介します。
執筆にあたり英語版Wikipediaを参照していますが、個人的に調べたことも追記していきます。
(今回の記事は前編です。後日後編を公開します。)
コリヤー兄弟(Collyer brothers)はマンハッタンのハーレムに住んでいた資産家の兄弟である。兄はホーマー・コリヤー(Homer Lusk Collyer 1881年11月6日生ー1947年3月21日没。享年65歳)、弟はラングリー・コリヤー(Langley Wakeman Collyer 1885年10月3日生ー1947年3月9日没。享年61歳)。生涯独身のまま、3階建ての大邸宅に二人きりで過ごしていた。
彼らは生前からその奇妙な暮らしぶりが都市伝説として語られ、死後は膨大な量のゴミを溜め込んでいたことで有名になった。
現在インターネット上では主にオカルト趣味によるまとめ記事がいくつもヒットし、強迫的ホーディング(ためこみ症、compulsive hoarding)の典型的な症例として精神医学の見地から紹介されることもある。*1
コリヤー兄弟の両親
父ハーマン・コリヤー(Herman Livingston Collyer 1857年ー1923年)は婦人科医、母スージー・コリヤー(Susie Gage Frost Collyer 1856年ー1929年)は著名なオペラ歌手で、二人は従姉弟同士だった。1880年に長女フランシス(Frances)*2が生まれるが、生後4ヵ月で亡くなっている。その後1881年に長男ホーマーが、1885年に次男ラングリーが生まれた。
一家は長年共に暮らしてきたが、1919年頃ハーマンとスージーが離別*3。父ハーマンは新たな住居へ引っ越し、残された母スージーと兄弟2人はそのまま同居することになった。1923年にハーマンが死亡、1929年にスージーが死亡。両親の莫大な遺産は全て兄弟のものとなった。
家族に関するエピソードはほとんど残されていないが、従姉弟同士の結婚は当時忌避されており、世間体にあまりこだわらず生きていくスタイルは親譲りの気質であったのかもしれない。
社会生活を送っていた頃のコリヤー兄弟
両親からの恵まれた教育を受け、秀才であったコリヤー兄弟は共にコロンビア大学を卒業している。ホーマーは海事法、ラングリーは工学と化学の学位を修めた。また、ラングリーはプロのコンサートピアニストでもあった。2人は自身の専門を活かしてわずかな期間働いていたが、それも長続きしなかった。ホーマーとラングリーが働いていた頃のエピソードとしては次のようなものがある。
保険会社勤務時のホーマー*4
1928年から1929年までの約2年間ホーマーを雇っていたソール・フロンクス(Saul Fromkes 1908年生ー1991年没)*5はホーマーの風貌と普段の様子についてこう語っている。
彼はまるでダゲレオタイプの写真から抜け出てきたかのような古風な出で立ちだった。肩まで伸びた長い銀髪に、もみあげとほおひげがつながったサイドバーンスタイル、襟はきつく締め上げ、シルクのネクタイを着け、1900年代初頭のブラックスーツを着ている。常に丸めた新聞紙を小脇に抱えていた。
採用面接では、所有権の調査を専門とする弁護士だと自己紹介していた。5分ほどの面接で、彼が法律上の込み入った事情に精通していることが分かり、採用となった。
ときどきランチを共にしていたが、彼はギリシャ哲学者に関する話題がお気に入りで活発な議論が交わされた。しかし、プライベートな話題に関しては全く寡黙だった。
ある日、ホーマーの靴が靴下まで達するほどぺらぺらに擦り減っていることにフロンクスは気づいた。2年間越しでようやく知ったのだが、彼は毎日自宅から8マイル(約13キロ)先のオフィスまで歩いて通っていたのだった*6。
同時に、いつも持ち歩いている丸めた新聞紙も気になってきた。新聞の中身を読みたいという口実で手に取ったとき、そこからサンドイッチが落ちた。新聞紙はサンドイッチをくるむために使っていたのだった。フロンクスは過去に遡った分も含め給料を値上げし、翌日封筒に入れて渡すと伝えた。しかし、ホーマーが来たのはその日が最後で給料が渡されることもなかった。
フロンクスはホーマーを雇い続けたいという意思があったからこそ、給料を遡及してまで精算しようと申し出たはずである。ホーマーは哀れみを受けたと決め込み恥じ入ったのか、それとも働くことに飽きてしまったのか、推測の域を出ないのだがおそらく人付き合いが苦手で些細なことにも傷ついてしまう繊細な性格ゆえ逐電することを選んだのではないだろうか。弟ラングリーのエピソードからも彼ら兄弟の繊細過ぎる性格が窺われる。
コリヤー兄弟の管財人として遺品整理に立ち会ったウォルター・スキッドモア(H. Walter Skidmore)は投函される前の手紙を見つけた。非常に改まったイギリス英語で書かれたその手紙には、音楽教室に突然来なくなった少女への苦悶が綴られていた。ラングリーが彼女の母へ電話しても「いなくなった」との返答しかない。ラングリーは毎晩彼女の家の近所を行きつ戻りつし、向かいのポーチへ座って明け方まで待ち続けることもあったという。しかし、少女に会うことは結局叶わなかった。手紙を読んだスキッドモアは「変な言い方だけど、この恋でラングリーはちょっとおかしくなったのかもしれない」と感慨めいた意見を述べている*8。
この他、ラングリーとピアノに関するエピソードには次のようなものがある。
・兄弟の死後、14台のグランドピアノが発見された。
・ビクトリア女王から下賜されたピアノも含まれていた。
・ピアノのディーラーとして働いていたことがある。
・ピアニストとして最後に演奏したのはカーネギーホールでのコンサート。ラングリーの後に演奏したパデレフスキの方が評判が良く、このコンサート以後は専ら趣味として演奏するようになったという。*9
*1:
Introduction to Hoardiculture | Literature, the Humanities, & the World
強迫性ホーディングについての日本語論文「モノをため込む心理:誰が,何を,なぜため込むのか?」廃棄物資源循環学会誌 28(3), 186-193, 2017一般社団法人 廃棄物資源循環学会
CiNii 論文 - モノをため込む心理:誰が,何を,なぜため込むのか?
*2:英語版Wikipediaでは「Susan」としているが、出典元の新聞記事では「Frances」との記載があったことから本記事では「Frances」とする。おそらく英語版Wikipediaの誤植であろう。
*3:ハーマンとスージーが離別した理由は明らかになっていない。『変人偏屈列伝』(2004年 集英社 荒木飛呂彦原作・構成、鬼窪浩久作画)では、ハーマンが女性患者といかがわしい関係になったことが原因としているが、創作上のエピソードである。
*4:以下のエピソードは『Out of This World』(Helen Worden Erskine G.P. Putnam's Sons 1953)の「Hermits of Harlem」p.15から引用した。
*5:ソール・フロンクスはアメリカの著名な実業家。シティ・タイトル保険会社の創設者兼社長であり、数々の要職を歴任していた。タイムズの訃報には1928年にロー・スクールを卒業したとあるため、起業したばかりの頃にホーマーを雇っていたことになる。
Saul Fromkes, Lawyer And an Executive, 83 - The New York Times
*6:ニューヨークでは1904年に地下鉄が開通しており、少なくともホーマーが勤務していた1928年頃には通勤手段として十分機能していたものと思われる。
*7:以下のエピソードは『Out of This World』(Helen Worden Erskine G.P. Putnam's Sons 1953)の「Hermits of Harlem」p.51(スキッドモアのコメント)、p.9(カーネギーホールでのコンサートに関するラングリーとの会話)から引用した。
*8:原文は次のとおり。解釈が少し難しいコメントだが、意訳してみた。
”Love does queer things to you,” said Mr. Skidmore. "If you ask me, it left Langley a bit touched."
*9:日本パデレフスキ協会のフェイスブックの投稿から、パデレフスキが実際にカーネギーホールで演奏していたことが分かる。ただし、ラングリーがカーネギーホールで本当に演奏していたのかは不明。
https://www.facebook.com/paderewskijp/posts/1635756953384085/